社会福祉法人 全国スモンの会

資料室

相良よしみつの手記

■定期刊行物
「曙光」

スモン病・・・この“病魔“の克服を願って

手記:

ある時、私は突然道の上にすくっと立って歩き出した。
今まで、どうして松葉杖を使っていたのだろうか。“足が悪くもないのに”と自問した瞬間、人に見られるとまずいと思って、そっとあたりを見回した。誰もいない。ホッとした安堵感があった。本当に歩けるんだ。どこも何ともないと思った時、目が覚めた。


スモン病による両足麻痺の体をひきずって全国各地に支部結成のため東奔西走する相良会長
(名古屋駅 昭和45年2月)

相変わらず足のウラに不快なものがある。そっと立ってみたが、やはり昨日と同じであった。もう何年くらい自分の足で歩いていないだろうか。十メートルでいいから、しっかりした自分の足取りで歩いてみたい。走ってみたい。
昭和四十二年五月六日の十二時頃、私は突然、内蔵までもっていかれるような猛烈な下痢に見舞われた。
めまいが一時間ぐらいつづいたが、それもその日の夕方には動くことができた。それから八日後の十四日まで、下痢のことはすっかり忘れて過ごした。
その夜、親友の訪問をうけ、二人でウィスキーを飲んだ。午前一時頃床にちて約三十分ぐらいたったとき、腹部に激痛をおぼえた。七転八倒の苦しみに堪えられず、救急車で日大駿河台病院に入院した。
入院後三日ぐらいしてからだったと思う。主治医から“スモン”という病気であることを告げられた。初めて聞いた病名である。その病状をたずねたところ、歩けなくなるという言葉が耳に残った。その時の私は、歩くことにはなんの不自由もなかった。そんな馬鹿なことが、と思っていた。二十日ぐらいしてから、つま先からしびれはじめ、一週間ぐらいでほんとうに歩けなくなった。全く生ける屍のようなベット生活が始まった。苦しい毎日だった。いつのまにか一年が過ぎていた。退院するとき、私は自分の足で歩くことが出来なかった。それからというもの、スモン病患者の社会におかれた姿がどんなものかと考えるようになって、私は自分一人のことだけを考えることができなくなっていた。

◆ 一万人越える患者?

この病気はすでに昭和三十三年頃から発生し、日本だけにある奇病といわれている。今日にいたっても原因は全く不明のままである。
昨年、スモン病と断定された患者の中から多数の自殺者がでた。茨城県水戸市のある人は「スモン病は不治の病だ。これで苦しんでいる人がたくさんいる。早く原因を究明して、治療法を発見してくれ」との遺書を残して自殺した。また、長野県の若い警察官は、入院中にテレビで“スモン病は伝染性がある”と聞き、その時から行方不明になり、同夜、作業小屋で首つり死体となって発見されている。
全国で一万人から二万人と推定されるスモン病患者者は、生活不安をいだき、社会の中では自閉の生活を送らなければならない。こんな生活を送っているスモン病患者とその家族を放置しておくことに、ある種の危険を感じた。
「全国スモンの会」はそんな意味で結成されたのであった。私は二度と悲劇が起こらないように、全国各地を患者と話し合うために歩き回っている。いつまた再発して倒れるかも知れない身を案じながら・・・。
スモン病の原因究明の課程で、報道機関がセンセーショナルな発表をするたびに、私たちには生活不安だけが加重される。私たちの立ち場を考慮してもらいたいと訴えているが、誰もこれに答えてくれない。こんなことを思いながら、一日歩きまわって疲れた身を床に横たえるとき、悲しい、空虚な、寂しさに覆われることがよくある。

◆ 政府は対策を急げ

しかし、人にはわからない肉体的苦痛と、社会的不安の中で、全国スモンの会が、私たち患者にとって、唯一の希望の波紋として徐々に広がり始めている。それだけに使命感を感じないわけにはいかない。また、衆議院公明党の山田太郎議員を訪れ、スモン病に対する立法化の問題を話し合ったことも希望の一つである。
スモン患者も他の健康人と同じ生存権をもち、社会人としての接触をもっている。そしてスモン病は、好むと好まざるとにかかわらず、いまや社会全体の問題になっている。スモン病をこのままにしておくことはむしろ社会的危険であるといえるのではないか。
現在、患者の自己防衛としての医療行動は充分に果たしえない状況である。政府は、四十五年度予算に五千万円のスモン病研究費を計上したが、患者の医療費の問題はなんの対策も講じられてはいない。
いったい私たちを守ってくれるものは何があるだろうか。私は、同病に悩む患者の一人として、この病軀をすりへらしても、なんとか役に立ちたいと思っている。スモン病患者とその家族を憂うとき、私の脳裏に去来するのはそのことだけである。